丹波篠山から江戸へ
丹波黒黒豆の
もっと!まめなはなし

丹波篠山で生まれた丹波黒黒豆。
ひときわ大粒で香りの良い黒豆は、
どのような歴史をたどってきたのでしょうか。
いつの時代も高く評価され、愛されてきました。
その歩みをご紹介します。

監修/島原 作夫

古くから黒豆は
からだに良いと

古書に記された黒豆の効能

大豆の一種である黒豆は、昔から食料としてだけでなく、薬の原料として利用されてきました。
黒豆は、中国では数千年も前から漢方の生薬として利用され、今から2000年前頃の成立とされる中国最古の薬物書『神農しんのう 本草ほんぞうきょう 』には「活血(血のめぐりをよくする)、利水(水分代謝を調整し、体内の水のバランスを整える)、祛風きょふう (風邪を除く)、解毒(体内に入った毒の作用を除く)」の効能を有すると記されています。

黒豆が日本に伝来した時期についてはよくわかっていませんが、平安時代中期の10世紀に作られた法典『延喜えんぎしき』に河内国の黒大豆が登場し、また同時期に成立にした辞書『倭名わみょう 類聚るいじゅしょう』には、黒豆が「くろ まめ」の表記で記載されており、黒豆は古くから親しまれていました。
日本の薬学に大きな影響を与えた『本草ほんぞう綱目こうもく 』(1596)には、動物・植物・鉱物約1900種について、名称や産地、薬効、処方例などが記述されています。
この本に、「大豆には黒色、白色、黄色、褐色、青色、まだらの数色があるが、黒色のものだけが薬として用いられる」「黒豆は腎臓病に効く。血を活し、排尿をよくし、気分をおだやかにし、諸々の風熱を除き、一切の毒を解する」効能があると記されています。
『本草綱目』の知識を一般に普及しようとして、江戸時代、本草書(中国の薬物についての知識をまとめた書)が多く出版されるようになりました。そうした本草書に、庶民の日常生活に用いる食物を著者自身の体験も交え解説している人見必大 ひとみひつだい の『本朝ほんちょう食鑑しょっかん 』(1697)や、『本草綱目』の注解書の大成ともいうべき小野おの蘭山らんざん の『本草綱目ほんぞうこうもく啓蒙けいもう 』(1803-06)があります。
つまり、漢方の世界では、黒豆にはすぐれた腎のはたらきをたすける効果(特に血流をよくする効果)があるとされています。実際に、黒豆の煮汁を飲むと血流がよくなり、高血圧や狭心症が改善したという臨床例が報告されています。近年の研究により黒豆の種皮中に豊富に含まれるポリフェノールが薬効の主体であることが明らかにされつつあります。

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武士や忍者の
非常食の主原料は黒豆

戦国時代の武士や忍者はひとたび戦場などに入ると食事もままならず、食べ物が手に入らないこともめずらしくありませんでした。そんな事態にそなえての携帯保存食に「兵糧 ひょうろうがん 」があります。
『上杉家兵法書』には、「麻の実、黒大豆を粉末にし、これにそば粉を混ぜ、酒に浸してから日に干し、再び酒に漬けておき、丸薬を製して、蒸す」と作り方が書かれています。特に、重視されたのが黒豆です。兵糧丸1~3粒で1食分、これを1日に2~3回食べれば、飢えをしのげることができたといわれています。

持ち運びに便利で、保存がきいて、栄養も満点な兵糧丸は空腹感を紛らわせるだけでなく、栄養をとって体力を維持するためのものでもありました。昔からからだに良いと知られていた黒豆は、兵糧丸の原料の一つでした。

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徳川慶喜公も食した
健康食材

徳川慶喜公(1837~1913)が黒豆を食していた記録が残っています。
江戸幕府最後の将軍となる徳川慶喜よしのぶにあてた、父の徳川なりあき からの書簡のなかに、黒豆を食するように語っている一節があります。
「黒豆は日に百粒づつ上がり、牛乳も上がり申し候よし、これはかねても申し候通り、御一生御 め成されざるやういたしたく候」と、斉昭は主君として長生きするための養生法を伝授しました。
では、父から指示されたことを、慶喜は守ったのでしょうか。

「先日中より日々牛乳御用ひ、黒大豆も朝に御用ひのよし安心いたし候」
指示された養生法を実践していることがわかります。斉昭の安堵したようすが目にうかびます。
この書簡は、幕末の安政元年(1854)に書かれました。慶応2年(1866)に慶喜公は徳川第15代将軍になりました。慶応3年(1867)に大政奉還(幕府から朝廷(天皇)に政権を返す)して江戸幕府に終止符を打ちました。将軍職を辞した後は、写真や狩猟など多彩な趣味人として余生を過ごし、大正2年(1913)に76歳で亡くなりました。

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きびしい自然と
人びとの
知恵から
生まれた
“丹波黒黒豆”

水不足を乗り越えるための
人びとの知恵

兵庫県 丹波篠山市

多紀郡たきぐん (現在の丹波篠山市)は、内陸性気候に属し、昼夜および夏と冬の気温が大きく、降水量が少なく、また大きな河川に恵まれず、まわりの山々は低く集水面積が小さく、農業用水の不足に悩まされてきた地域です。
江戸時代はじめから多くのため池が山の谷につくられましたが、池の構造も小規模で山間の谷の水や雨水をためる程度のものが多く、田植の季節になっても下流の盆地内の平坦部まで水が十分にまわってきませんでした。

そこで、下流の低い土地に暮らす集落の人びとは、すべての水田に水稲を植えると、十分に水がいきわたらず、どの水田からも米を収穫できなくなるという事態を防ぐため、集落で話し合い、「犠牲田」を設けました。犠牲田とは、水を引き入れず、稲作をおこなわない水田のことです。
人びとは知恵をしぼり、その犠牲田の土を掘り上げて高畝にして黒豆を作る技術を生み出しました。今からおよそ300年前に考えだされました。

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集落ぐるみの生産方式

黒豆の栽培にはとても手間隙がかかります。地元では黒豆を指して「くろう(苦労)まめ」とも呼ばれています。それもそのはず、栽培難易度が高く、稲作の6倍もの時間がかかります。まずは水田だったところを水はけのよい畑につくりかえなければなりません。丹波篠山は、水不足に悩まされながらも土壌は粘土質で、排水の滞りがちな湿田が多い地域です。黒豆を栽培するには、水田の土を掘り上げて高畝をつくらなければなりません。

6月はじめに高い畝ができあがりました。いよいよ本格的な黒豆づくりが始まります。種まき、苗の移植、株元に土を寄せる土寄せ、肥料やり、草とり、病害虫の防除、倒れるのを防ぐロープ張り、水やり、葉とり、刈り取り、シワや虫食いなどの粒の選り分け、土づくりなど、個人では途方にくれてしまうような手間のかかる作業が6月から12月まで続きます。でも、集落の人びとには、たいへんな農作業を集落ぐるみでおこなう「協働」の意識が根付いていました。黒豆栽培は集落ごとに組織化され、何世代にもわたり受け継がれてきました。

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黒豆栽培を通して
里山の自然と生物を守る

黒豆は、同じ水田に毎年続けて作付けすると生育が悪くなり、収穫が少なくなるなど連作障害を起こしやすい作物です。丹波篠山では黒豆を栽培した後は水稲を2~3年作付けする田畑輪換 でんばたりんかん 方式が取り入れられ、土壌の改善を図っています。かつては土壌の改良剤として落ち葉や枯れ木を燃やしてつくる灰肥料が用いられました。

灰肥料に使われる草木は「わち刈り」でも採取されました。わち刈りは、農地と里山との境界部分の草木や落ち葉を採取することです。農地が日陰になるのを避けるだけでなく、里山の自然と景観をまもるのにも一役買っていました。
また、農業用水を確保するため築かれたため池では、セトウチサンショウウオやモリアオガエルなどの両生類、ナミゲンゴロウなどの水生昆虫が生息しています。絶滅の危機にある希少な生物が丹波篠山の農業と共生しています。

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優良品種「丹波黒」の育成

丹波篠山には、さまざまな種類の黒豆が存在していました。価値の高い大きな粒の黒豆を作ろうと、農家は毎年、大粒の黒豆を選び、あるいは農家間で種を交換し、その種を播いて栽培してきました。
こうして受け継がれてきた丹波篠山の黒豆の中から、兵庫県農事試験場(現在の兵庫県立農林水産技術総合センター)は昭和16年(1941)に「波部 はべぐろ 」の系統比較により「丹波黒」を選定し、兵庫県が奨励品種に指定しました。

令和3年2月、
丹波篠山の黒大豆栽培が
に認定

丹波篠山では、およそ300年前から黒大豆が栽培されてきました。
令和3年(2021)2月、「丹波篠山の黒大豆栽培~ムラが支える優良種子と家族農業~」が日本農業遺産に認定されました。
その概要を以下『黒大豆を未来へつなぐ丹波篠山農業遺産』(丹波篠山市制作、2023)から抜き書きします。

黒大豆の歴史を見にいこう

雨が少ない丹波篠山の苦労と工夫から生まれた黒大豆栽培。特徴的な「乾田かんでん高畝たかうね 栽培技術」や「灰小屋」という循環型で持続性の高い仕組みがあります。

江戸時代からつづく、黒大豆の品種改良

江戸時代から品種改良が続けられ、たくさんの品種のなかから選び抜かれた品種が今の美味しい黒大豆になりました。

もしもいろんな取り組みをしてこなかっかたら?

黒大豆だけでなく、暮らしや文化を大事に守ってきたからこそ、丹波篠山は全国から注目される街になりました。

丹波篠山のさまざまな取り組み

300年前からつづく人々の努力で築かれてきた丹波篠山は、これからもより良いまちを築くために、さまざま取り組みをつづけていきます。「農都のまほろば水路」「農都のめぐみ米」「ワクワク環境みらい都市」や地域活性化を図る視点に立った「獣がい対策」など。

継承されてきた伝統的な黒大豆の栽培法や、それに密接に関わって育まれた文化などが評価され、丹波篠山市は次世代に受け継がれるべき伝統的な農業を営む地域として認められました。

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※日本農業遺産とは、国連食糧農業機関(FAO)が認定する世界農業遺産に対し、日本独自の認定基準にもとづいて次世代に受け継がれるべき伝統的な農林水産業を営む地域(農林水産業システム)を認定する制度です。

長く愛されてきた
丹波篠山の
“丹波黒黒豆”

藩主も称賛した
丹波篠山川北村の黒豆

多紀郡にかつて川北村という村がありました。この村は、毎年、水稲の植付け不可能な犠牲田を生じ、その面積も大でありました。その犠牲田に作付けされたのが黒豆です。

『多紀郡誌』(1911)によると、江戸中期の1750年頃、篠山藩主は多紀郡内の農産物の中で、川北村の黒豆が特に優れているとほめたたえ、川北の黒豆の中からよりすぐった黒豆を幕府に献納しました。残念なことに、この本には出典の明記がなく、献納は大もとの資料で確認できません。
江戸後期の書物『多紀たきぐん明細めいさい 』(1848~54)に「黒豆 川北ノ産ヲク煮テ皮切レズ」とあり、今も川北黒大豆として名声を博しています。

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黒豆といえば昔から丹波篠山

丹波篠山の黒豆についてのもっとも古い記録は、享保15年(1730)刊行の料理書『料理網目調味抄』の「座禅豆かたく煮るハ豆を布巾にてふきて生漿にて炭火にて煮るくろ豆ハ丹州笹山名物なり」「黒豆 丹州笹山よし 押て汁煮染」であります。

つまり、黒豆を醤油で固く煮しめた座禅豆は丹州笹山の名物である、黒豆は丹州笹山のものが優れている、豆を汁が十分しみ込むまでよく煮る、と。丹波篠山の座禅豆が、江戸時代中期にはすでに名物となっていました。
また、丹波国一帯を描いた『丹波たんばのくに大絵図 おおえず』(1799)に丹波国名産「黒大豆くろまめ 」とあります。
江戸時代後期の風俗をつづった随筆集『嬉遊きゆう笑覧しょうらん 』(1830)に「『調味抄』に、『黒豆、丹州笹山よし。押て汁、煮染』などいへり(今正月殊更にこれを煮ることしきしょう のやうなれど)」と記されており、当時から黒豆の煮豆がお正月の定番料理になっていたことが分かります。

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黒豆の時献上

江戸時代、幕府と大名間にとき献上けんじょう というならわしがありました。季節ごとに領内の産物を幕府に献上することです。
天保2年(1831)に、藩主青山忠裕ただやすは日置村の波部 はべ六兵衛ろくべい によりすぐりの黒豆の良い種を村の農民に配布させて、品質の改善に努めました。

良質な黒豆がたくさんとれるようになったのでしょう。篠山藩主は弘化3年(1846)と安政3年(1856)に黒大豆を幕府に時献上しました。時季は寒中、現在の暦でいうと1月はじめころから2月はじめころまでに当たります。
このことは『弘化武鑑』と『安政武鑑』によって確認できます。武鑑は江戸時代の大名・旗本や幕府の役人が一覧できる名簿です。
時献上の品は当時唯一の公式な諸国産物であります。この献上によって、幕府公認というお墨付きを得た篠山の黒豆は、人びとが品質の優れたものとして信頼感をいだく産物になりました。

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丹波黒黒豆が愛されるわけ

黒豆には、良質なたんぱく質や脂質、食物繊維、カルシウム、鉄分、ビタミン、大豆イソフラボンといった大豆に含まれる栄養はもちろん、黒い種皮にアントシアニンというポリフェノールの一種が含まれています。

たんぱく質、脂質、ポリフェノール、大豆イソフラボン、カルシウム、鉄分、ビタミンB群-E、食物繊維

ポリフェノールは、抗酸化作用を持ち、病気や老化を引き起こすとされている活性酸素を取り除く働きをしてくれます。
黒豆のなかでも、丹波黒黒豆はおせち料理などに用いられる一級品の黒豆です。世界的にみてもひときわ大きな粒、煮ても皮がやぶれにくく、よくふくらむ、とてもうつくしい姿かたちが特長です。
そんな丹波黒黒豆にはもう一つ、確かな品質を裏付ける特長があります。種皮の表面にブルーム(ろう粉)と呼ばれる白い粉がついていることです。ブルームは黒豆自身がつくりだすもので、病原菌に感染するのを予防し、鮮度を保つ働きがあるといわれています。
煮豆にするとやわらかく、もちもちとした食感があり、口の中に広がるあまい香りと独特の風味は、江戸時代から人びとを魅了してきました。

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丹波篠山の黒大豆の歩み

享保15年
(1730年)
『料理網目調味抄』に「座禅豆かたく煮るハ豆を布巾にてふきて生漿にて炭火にて煮るくろ豆ハ丹州笹山名物なり」「黒豆 丹州笹山よし 押て汁煮染」とある
『料理綱目調味抄』の「黒豆 丹州笹山よし」の部分 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

『料理綱目調味抄』の
「黒豆 丹州笹山よし」の部分
出典:国立国会図書館デジタルコレクション

寛政11年
(1799年)

『丹波国大絵図』に丹波国名産「黒大豆」とある

文政元年
(1818年)

豪農・園田庄十左衛門が藩に黒大豆国産化計画を言上する
多紀郡(現在の丹波篠山市)の黒大豆の生産量約300石(約45トン)

弘化3年
(1846年)

篠山藩主から江戸幕府に黒大豆を時献上

嘉永年間
(1848~54年)
『多紀郡明細記』に「黒豆 川北ノ産ヲ善ク煮テ皮切レズ」とある
『弘化武艦』の「時献上 黒大豆」の部分 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

『弘化武艦』の「時献上 黒大豆」の部分
出典:国立国会図書館デジタルコレクション

安政3年
(1856年)

篠山藩主から江戸幕府に黒大豆を時献上

明治4年
(1871年)

波部本次郎が優良系統「波部黒」を選抜

明治23年
(1890年)

波部本次郎が第三回内国勧業博覧会に「大豆 黒」として出品し「三等有功賞」を受賞

明治28年
(1895年)

波部本次郎が第四回内国勧業博覧会に「大豆 波部黒」として出品し「有功二等賞」を受け、宮内省のお買い上げになる

昭和初期

多紀郡の黒大豆の生産量約200石(約30トン)

昭和9年
(1934年)

多紀郡内の「川北黒大豆」と「波部黒」という二つの銘柄を「丹波黒大豆」に統一

昭和16年
(1941年)

「波部黒」の系統比較により「丹波黒」を選定し、兵庫県が奨励品種に指定

昭和28年
(1953年)

多紀郡の丹波黒大豆の生産量約100石(約15トン)

昭和29年
(1954年)

小田垣商店が「大玉丹波」を商標登録

昭和46年
(1971年)

多紀郡で減反政策を契機に水田で黒大豆の本格的な生産を開始

昭和53年
(1978年)

フジッコ株式会社が「おまめさん」シリーズで丹波黒黒豆の販売を開始

昭和59年
(1984年)

小田垣商店が丹波黒大豆の枝豆を初商品化

昭和62年
(1987年)

株式会社小田垣商店が丹波黒の枝豆「丹波の黒さや」を商標登録

平成元年
(1989年)

大粒の優良系統「兵系黒3号」を兵庫県が育成

平成20年
(2008年)

兵庫県丹波黒振興協議会が設立される

平成23年
(2011年)

丹波ささやま農業協同組合が地域団体商標「丹波篠山黒豆」を取得

令和3年
(2021年)

「丹波篠山の黒大豆栽培」が日本農業遺産に認定される
 丹波篠山市の丹波黒大豆の生産量437トン、全国シェア約20パーセント

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きびしい自然と人びとの知恵のもと、およそ300年にわたって手塩にかけてそだてられてきた丹波黒黒豆。大きく、うつくしく、おいしく、からだ良く、そして品質の高い丹波黒黒豆が、これからも丹波篠山で大切にはぐくまれていきますように。私たちは応援してまいります。

令和に復活した丹波黒黒豆奉納

上野東照宮

丹波篠山 → 上野東照宮

東京・上野公園にある上野東照宮は、徳川家康公、吉宗公、慶喜公をお祀りする神社です。
丹波篠山の黒豆が江戸幕府に献上された史実にならって、上野東照宮に丹波篠山産の丹波黒黒豆を奉納します。

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